荒川で初めて泳げたこと

五時間目の終わりのサイレンが鳴った。それまで、熱心に昔話の本を読んで聴かせていた先生が、
「みんな、よくわかったかな。今日はこれで終わり」と、言って本を閉じると、級長がさっと立って、
「起立っ、札ツ」と、号令を掛けた。
みんなはガタゴト机や椅子の音をさせて先生の方へ向いてお辞儀をすると、本や帳面をかぱんに詰めてガヤガヤと廊下へ出て、支関の土間へ小走りに行って渡り廊下の上で下駄箱からズック靴を取って急いで突っ掛け校門へ向かって走る。
門を出たところで、よっちゃんと一緒になった。二人はどちらからともなく、
「早くけえって、兎の草取りに行くべえや」
と、鞄を横に抱えて走り出した。鞄の中の鉛筆や消しゴムの入った筆箱をカタコトと音を立てながら「ただいまl」と、家へ飛び込むと、鞄を座敷の机の方へ放り投げ、早々草取り篭と草刈り鎌を持って、前の道で少し待っていると、すぐょっちゃんが同じように篭と鎌を持ってやってきた。
二人はクルミ坂を滑るようにして降りると、そこはレンゲ草の花がもう終わりに近付いて、所々に黒い細長い種の鞘を付けているのがわかった。少し段があり、やや広い川の上に広がる田圃である。温かい初夏を思わせる風が吹いて、雲雀が声一杯に嶋っている。そんな春の午後だった。
二人は無心に兎の好む「レンゲ草」や「ホトケノザ」や「タビラコ」など、鎌の先の方で弾くようにボうンボうンと取っては篭に入れているうちに、篭の中には大分草が貯まってきた。そろそろ飽きてきた二人は、
「川へ行って泳いでみるか」
「うん、そおがいいや」
と、草の入った篭や鎌を置き去りにして、段々の田圃から少し急な「ナメ」が露出してその割れ目から清水が湧き出している低い崖を、滑らないように用心深くそれでも敏捷に降りて川の流れの縁に立った。そこは、「ムジナの淵」といって、白い波頭を立てた急流のでうかいタッポ(波の大きい急流)で、その脇は渦が巻いたりモクデが立ったり、それを見うめていると、
目が回るような青い青い深い測である。

二人は無言でそれを見つめ、静かにそろそろと着物を脱いで猿股一丁になって、草株の上に
今脱いだフランネルの着物を丸めて置き、流れの急な所や深い所は怖いので、少し下流の浅い所を選んでそろりそろりと向こう岸を目指して川越しを始めた。
向こう岸の青い深い測の脇には、流れが穏やかで腹から胸くらいの深さで底が砂の気持ちのよいところがあった。二人は恐る恐るそこへ行った。とてもきれいに澄んでいる川の底の自分の足がとても大きく見えて、猿股が白くふわふわして緩い川の流れに時折、天女の羽衣のよう
にゆらiりゆらlりと動いて爽やかだった。
うっかり、みんなの泳ぐ真似をして溺れると困るから、どうしたらよかんべえということで、水の中へ顔を突っ込んで足を川の底から離してみた。すると、ふわふわと体が持ち上がるような気がした。そこで、両腕を横に広げて前から後ろへ動かしてみた。頭を上げると水を呑んでしまいそうだつた。また、足を突いて立ち、大きくふーうと息をして、今度は思いつ切り息を
吸って、さっきのように顔を先に川の中へ入れて足を底から離し、腕を伸ばして亀の子の泳ぐように後ろへ掻いてみた。

頭は水の中へ入れたまま、足を大きく聞いたりつほめたり。するとどうだろう、体が援い川の流れに逆らって、ぐいーんと前へ出た。水の中にもぐったままの方が調子がいいようである。時折立って息をしては、また根気よくうんむぐっては手足を動かしているうちに、だんだん上手になって面白くなって、
「これあ、なんつう泳ぎ方だんべえ」
「水鳥に川ん中え、うんむぐるんがいたっけなあ」
「ありゃあ、カモもこのめえ道元へうんむぐっていたつけ」
「そうだ、サギもつんむぐるんだんべえ」
「そうだ、そうだ。『サギ泳、ぎ』がいいや」
サギは水の浅い所を歩くだけで、泳ぎもしないのに、二人は勝手にサギが泳ぐことにして、
「サギ泳ぎ」なんて名前を付けた。二人は盛んに息を吸っては川にもぐってはを繰り返しているうちに、すいーうと川の水面に顔を出すことが出来るようになった。
そうだ、これだ。
「おーい、よっちゃん、顔が出せたぞーっ」
「うーん、おれもだあーっ」
二人は、ウサギの草どころではなかった。川の流れが緩いので、あまり無理をしなくても腕を広げて足を川の底から離してすーうと、これが平泳ぎというのかなと思いながら、流れの急な深いおっかない方へは行かないように気を付けて、何回かやってみた。ふと気が付くと、もうお天道様が大分寺尾山の方へ近寄って、いつからか出てきたそよ風が、涼しいのを通り越して肌寒く感じるようになってきた。二人は漸くウサギの草を採っていたのを思い出して、
「そうだ。もう少し草取りをしてぐべえや」
と言うので、折角出来るようになった平泳ぎの真似をやめ、さっき川へ入った向こう岸へ浅い所を選んで、そろりそろりと川越しをして着物を脱いだ所へ行き、岸の岩の上へ立って手拭いをよく搾って手早く早々に体を拭き、猿股を脱いでよく搾ってパタパタとよく振って、少しいやうぽくて感じが悪いのを我慢して履き、シャうをつうかぶって着物を着て、三尺帯を急いで締めて知らん顔して、低い崖を這い上り、
「あl、面白かった。明日も来ベえや」
と、二人は気もそぞろに、どうにか篭に一杯近くレンゲ草やホトケノザやらウサギの好きな草を採ると、今日初めて泳げたんだということだけが頭の中に一杯で、胸をワクワクさせながら、さつきまで泳いでいた川の方を振り返り振り返り、稲荷様の上の急な坂を草の入った篭をひう担いだり横抱えにしたり息せき切って登り詰め、また川の方を見た。

さっき泳いでいた所は、真っ青なゆっくりした流れに見えて、その真ん中の方は大きなタう
ボが白い波頭を上げて見るからに恐ろしそうだった。
でも、その脇の緩い流れを見ると、さっきの平泳ぎのことが思い出されて、明日天気だったら早く学校から帰ってまたウサギの草をかずけに泳ぎの練習をしたいなと思った。もう家の前に来たので、「また明日な」と言って別れた。二人とも今日、下の川で泳いだことは家の人達には内緒にしておいた。

次の日もよいお天気、だった。やはり午後の授業は気もそぞろ。先生の言うことも上の空で、五時間目の授業が終わると早々に家へ飛んで帰ってすぐ鎌と篭を持って昨日の田園へ急いで行った。田園ではレンゲ草の花も終わり際で、お天気のせいか、レンゲ草の花の匂いがむっと喧せ返るようで、蜜蜂がブンブン羽音を立てて残っている花へ夢中でしがみついていた。
気が付くと、レンゲ草の花の匂いだとばかり思った匂いが、どうも甘い匂いが強すぎると思ったら、それは川原や山裾に咲き始めた白いアカシヤの花の香りだと気が付いたとき、相棒のよっちゃんが急坂の上に姿を見せて、
「おーい、早かったなあ」と、大声を掛けてきた。
「おーい、早く来ーぃ。待ってたぞおーッ」

よっちゃんは急坂をザう、ザーと音を立てて駆け下りて、息せき切ってそばへ来て、一生懸命
にウサギの食べる草を右手の鎌で器用に土際から採っては左手で手早くそばの篭へ放り込む。夢中で採るうちに、そろそろ篭一杯近くなってきた。
二人は急に顔を見合わせてにうこり領き合うと、鎌を篭の中へ放り込んで後をも見ずに一目散に川の方へ走った。低い崖の「なめ」の出た坂道をころがらないように滑らないように降りて、川の縁の岩の段々の割れ目から冷たい清水の出ているところへ足を踏んで、その横のよもぎやいたどりが生えている小さな草むらへ着物とシャうを脱いで置き、そろりそろりと川の中へ入って、膝小僧くらいの深さの所で胸や肩や背中まで水を引っかけて、水の温度に体を慣ら
して、昨日のように少し下手の割合浅い所を選んで川越しを始めた。
辺りの景色は藤の花もとうくに散って、日増しに緑が濃くなり、寺尾山の雑木林の色と松や杉、桧のような黒木の色との違いがだんだん少なくなって、時折カッコウが鳴いて、道元測の方から吹いてくるかすかな風がアカシヤの花の香りを運んでくる。
川を越し終わって、昨日泳いだタうポ脇のほうへゆっくり川の中を歩いて胸くらいの深さの所へ行き、こうにやればいいんだうけかと初めのうちは昨日ゃったように水の中へうんむぐって、そのまま平泳ぎの真似をしながら、だんだん深い所へ行ってみようと決心して度胸を出してタッポへ乗ってみた。

急な流れに任せて両腕を広げると、何のことはない。ふわあっとタうボに乗って二度三度と大波の上に乗っかったり、波の聞の谷間に沈んだり。そのうち四つう目の波を被ったと思ったら、五つ目の波も被って口からも鼻からも水を呑んで、喉の奥が痛くなって慌ててタッポから逃げて浅い所へ来て、
「けしょんけしょん。あーあ、助かった」
振り返ると、ょっちゃんは上手にタうポに乗って下流のほうにいる。
また、懲りもしないで、そこからタツポに乗ってょうちゃんのそばへ行った。二人は黙ってタッポ乗りを繰り返した。
川から出て岸を上流へ歩いて行き、川へ入って深い方へ歩いて、思い切ってタッポへ乗り込む。今度は大波のリズムに乗って上手にタツポが終わるまで泳げた。
それから後は、夏になると毎日のように川へ行き、泳、ぎがだんだんうまくなって、六年生の夏休みの終わり頃には、道元測の上の岩の段から下の真う青な深さが自分の背丈の二倍以上もある測へ一気に飛び込んで、底へ沈めて置いた白い石の取りうこをして遊んだり、大水のとき、真っ黒に濁った大タツポを「抜き手」を切って泳、ぎ抜いて、寺尾側へ行ってみたりした。
この辺の荒川ではどこへ行っても怖い所はないようになったのです。

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