渡し場を守った稲荷様

昔は、川向こうへ行くには自動車もオートバイも立派な橋もなく、みんな渡し場を歩いて通った。私がおぼえている荒川の渡し場と言えば、上流から鷺の巣の渡し、十早塚の渡し、戸野間の渡し、柳の渡し、滝坂の渡し、佐久良の渡し、武之鼻の渡し。下流には、阿保、招木大演、栗谷瀬など、その他にも知らない分もあったろう。武之鼻の渡しは、今度出来たハlプ橋の真下、武之鼻橋の辺りにあった。この渡し場は秩父と西谷津といわれた西秩父、遠くは上州、越後を結ぶ交通の要衝であった。秩父線秩父駅前通りを下るとハlプ橋の挟に出るが、その北約百五十メートル位の荒川右岸の段丘状の道路端に小さな社殿があり、額に「関連稲荷大明神」とある。幼少時、故老から伝え聞いたところによると江戸時代の修験者、即道坊が突いて来た樫の木の杖を桐の脇へ突き立て、これが枯れたら俺が死んだと思えと言って去ったという。
やがてその杖が芽を吹き、年を重ねて樫の大木となり人々は御神木と思ってあがめた。しかし、人々が稲荷様を配ったのは、この即道坊よりもっともっと前のことだと思われる。

樫の大木の根本に近くひどく雨風に曝された嗣が二体あり、一体が稲荷様、もう一体は羽黒大
権現。大正の末頃、風化を防ぐために社殿を造営し、御遷宮と称して記り込んだものである。昔は旧二月の最初の午の日を初午として例大祭の日と定め、神宮を迎えて祭典を執行した。銘仙景気華やかなりし昭和の初め頃は、煙火の打ち上げや福引大会なども行われ、また地元芸能人なども招いて浪曲大会などやったこともあった。
昭和三十年代のいつ頃だったか、平日にお祭りではこの近所でもお勤めの人が多くなって、奉仕する人が少ないので、世話人で相談して三月の第一土曜日、午後二時に祭典執行、午後五時頃より直会ということにした。
翌第一日曜日には、燈明料、御神酒などの奉納者に御神札、御供物の御送付、その他、職、太鼓などを片付けて、また会計面においても収支万端滞りなく済ませ、簡単な慰労会をしてすべて終了ということになる。
さて、稲荷様の霊験については、誠に深く広く、記録にはないが、代々の言い伝え、また故老たちから直接聞いたことを二、三掲げてみることにする。
まずは、前述の武之鼻渡しと、そこを守って来た人々と稲荷様との繋がりである。永久橋もなく、自動車もオートバイもない遠い昔、道路も人や馬がやっと通れるだけ。川を渡るには、夏は木で作った小さな舟、冬は木や竹、土で作った徒歩橋となる。尾田蒔側の上寺尾地区と秩父側の中村地区の人たちは、代々交通の要衝である武之鼻の渡し場を一生験主m守って来た。も
ちろん、ほとんどの家が農家であった。
春になって川の水量が増え、橋が流される危険があるようになると、両岸の人たちは話し合って日時を決めて両端から橋を分解して、両岸の小高いところにある橋木小屋と称する小屋へそれぞれの長さや太さの丸太の橋材を丁寧に保管し、川原でお茶など入れて小休止したあと、今度はいよいよ渡し舟の準備に取り掛かる。
まず、舟を係留する八番線を張るのだ。先ほどの橋木小屋に収蔵してあった八番鉄線と、それを巻き付ける太い丸太で造った頑丈な枠を運び出して組み立て、その枠の中心に組み込まれた絡車的な部分の心棒に巻き付け、さらに川面上一メートル二、三十センチの高さのところにピンと張り、その枠は中村方、寺尾方の両岸に地形にもよるが川の水際から数メートルのところに何十キロもあるような玉石をいくつもいくつも乗せて固定し、絶対に動かないようにする。そのピンと張った鉄線に木製の小舟を滑車を使ってしっかり係留し、両岸の聞を左右自在に移動出来るようにする。
それから、中村側の船着場から十数歩位離れた川の水面よりなるたけ高いところへ、船頭小屋と称する四人位で担げる一坪位の木で造った小屋を設置する。三方が板壁、腰掛けの高さの板の間で、中央にトタン板製の小さな「落としコタツ」があり、粗末な布団が掛けであって、板の間にはウスベリが敷いてある。夏はコタツは取り払って囲炉裏とする。
両岸の船着場を整備して今日の作業は終わりであるが、そのときから中村と寺尾の農家の人たちは一昼夜交代で勤め、機で作った連名の香帳板を回して船頭番をし、舟を漕いで両岸を行き交う人々を運んで便宜を計り、料金一人一銭を貰う。(昭和初め頃)
秋も終わりに近づき、川の水量が滅って、船底が川底の砂利をこする秩父夜祭が近づく頃、両岸の人たちは相談して日取りを決めて、渡し舟をやめて橋掛けをする。川を挟んで合図をし合い、中村側、寺尾側の橋木小屋から直径十五センチから二十センチ、長さ四、五メートルもある杉や桧の丸太を担ぎ出して、架橋場所を決めて取り付けるための石垣を積んだり、橋脚となる枠を組んだり、流れの中へも三組や四組の橋脚を石を乗せて固定し、橋桁と呼ばれる長い丸太を橋脚から橋脚へ投げ渡して橋の骨格とし、ここで一服、お茶を飲んで小休止。
今度は、河川敷近くの竹薮から竹や笹を多量に伐りだして、橋桁の上に横並びに分厚く敷き、その上を娃や菰で覆い、またその上に大勢で集めた川原の砂利を幾組もがもっこ担ぎなどで十センチ、十五センチの厚きに敷き詰め、両側に砂利のこぼれ止めの丸太を固定してよく均して徒歩橋の出来上がりである。
そして、舟の季節同様に船頭小屋の中で待機して橋香をし、通行人一人当たり一銭を貰う(大正から昭和十年頃)。橋番はたいていお年寄りがした。そして、子供たちはよく弁当届けをした。お昼御飯と夕御飯とを届ける。船頭小屋は人々の交流の場でもあり、中村の人や寺尾の人やと話が合ったり知り合いにもなったり、備え付けの茶碗でお茶など殴って楽しい一時であった。
舟の季節、橋の季節を問わず、人々を悩ますものに自然の猛威、台風や大雨による洪水、雪解けによる突然の増水などがある。荒れ狂う濁流に橋でも舟でも流されてしまうから、責任感の強い渡し場を守る人々は、お互いに励まし合ってどんな真っ暗閣の夜中でも、篠突く雨の中でも両側から競争で荒れ狂う濁流の中、一本の丸太も流さじと命を懸けて橋材を確保、収納したり、濁流にすんでのところで流されそうな舟を引き揚げたり、船頭小屋を安全なところへ担いで移したり、その労苦は計り知れなかった。
何代もの人たちが遠い昔から武之鼻の渡しを守って来た。そうして人々は、中村の坂之上耕地に鎮座する前述の稲荷様を一心に深く信仰したのなかでも、寺尾の原島源蔵家では、代々特に信仰が篤く、当主の曾祖父の永太郎さんは、あるとき旅に出て、きる大川に差し掛かった。折しも大水で、そこの渡し場でも舟が出なかった。
永太郎きんは、無理矢理に舟を借り受けると、濁流に向かって一気に梓を立てた。見る見るうちに、舟は激流に流されて、あわや転覆という状況になった。その時永太郎さんは一心不乱に坂之上の稲荷様を心に念じ、濁流と闘いながら必死に舟を操り何とか九死三生を得て、無事家に帰ることが出来たという。まったく稲荷様のお陰だったと、後の世までも語り草となった。
また、稲荷様はたびたび洪水を人々に知らせた。大水が出て、橋や舟が流される危険がある前の夜中に、大声でキヤツキャッと叫んで、人々に洪水を知らせたので、大急ぎで橋や船頭小屋を撤収して事なきを得たこともあった。
それから、昔々のあるとき、上中村のある人が枯草焼きをしたところ、風がないと思って火をつけたのに、どこからか風が起こってえらい勢いで燃え広がり、稲荷様も坂之上耕地の家々も危ないと、上寺尾の人たちが手に汗を握つてはらはらしていたとき、稲荷様の社殿の方角から神使のお白狐が手に手に水の入ったさげ桶を持ってぞろぞろ現れ、野火に向かってさげ桶の水を繰り返し繰り返し投げて、遂に野火を消し止め、大事に至らずに済んだと今の世までも語り継がれている。
その他、稲荷様にまつわる伝説、言い伝えは盗難除け、失せ物捜し、商売繁昌、学業上達、病気平癒祈願など、数え上げれば際限がなく、地元郡市内はもとより、遠く県内外、東京都在住の人々の信仰をも集めている。
尚祭杷に当たっては信仰厚き地主井上十三男家の御理解と、地元氏子のご奉仕に依り継続されている。
いつかの機会に武之鼻の渡しと、それを守ってきた人々と稲荷様との関わり合いを世に紹介し、後世に残したいと思い、ハープ橋の完成を機にここに書き記した次第である。

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